精神年齢=実年齢の3分の2説。
もとは子供での指摘なので、与太話程度に聞いてほしい。
障害を持ったお子さんを育てるのはどこも大変だ。
その中で発達障害を持つ子の場合、「どうでもいいことは博士レベルなのに、できて当然のはずのことが幼児レベル」ということがままあるらしい。
周囲の子供に興味を示さない、とか。
近所の人にあいさつされたのに返さない、とか。
やたらめったらこけるとか、しょっちゅう脱走するとか、小学校に上がった途端親にべったり甘えだしたとか。
見た目の成長と、中身の成長が、とってもアンバランス。
それが目に見える形ならいいけれど(?)、見えないままに変わっていくものだから、保護者も子供もわやくちゃになって仕方ないと思う。
そんなアンバランスなお子さんを、実年齢の3分の2の歳なんだと考えてみてください――というのが、ある専門家のアドバイスだ。
9歳なら、6歳なんだと考える。
6歳なら、4歳なんだと考える。
子供には、年齢に合わせた課題というものがあって、それを一段ずつ身につけていかなければ次には進めない。
ここをないがしろにして無理に進むと、おとなになってから長い長い補講が必要になってくる。しかも、おとなになるまでのたくさんの歪みも直しながら。
本来、それを学べる段階になってから、順番に学ぶのが一番いいやり方。
それなのに、体がその年齢だからといって、こころが5歳の子に小学2年生のふるまいを求めるのは、ちょっと酷ではないかな。
そう考えるための、精神年齢=実年齢の3分の2説。
私はこれ、おとなになっても続いているんじゃないかと思っている。
発達障害の大きな特性として、「想像力の障害」がある。
ファンタジーがわからないわけではないし、物語が楽しめないわけでもない。そこは人によりけりな面が大きい。
ここでいう「想像力」とは、目に見えないものを扱う力のことだ。
たとえば、Aさんが"こうするとうまくいった"と言う。
「想像力」のある人は、その話を聞いて"自分ならこうなるだろう"と想像する。
自分をAさんの立場におくこともできるし、自分にAさんのやり方を当てはめてみることも考えられる。
しかし「想像力」がはたらきにくい人は、自分で同じことをやってみないと、どうなるか全然わからない。
Aさんの立場になってみる、という言葉の意味そのものが理解しづらいこともある。
傍から見てどんなに無謀でも、失敗が目に見えていても、当人は自分で体感するまでまったく何にも思いもしない――ということが、起きやすい。
そうして失敗体験を積み重ねたために、無力感におそわれて引きこもる人もいる。
新たにやり方を学ぼうにも、また体当たりをしないと経験値にならない。
自分にあったやり方を考えることにすら、他者の支援を必要とする人もいる。
話を聞くだけで擬似的にでも経験を積める人と。
自分で時間と労力(とお金)を費やして、ひとつひとつ試さなければ経験にならない人と。
どちらが良い悪いはないけれど、少なくとも今の社会は、前者が多いことを前提に回っている。
まして発達障害には、社会性やコミュニケーションの障害もあるからね。
能力があっても、人間に興味を持って関心を示すしぐさができないと、相手を不快にしてしまう。
ただでさえ狭い「知的情報」の出入り口が、もっと狭くなってしまう。
ノイズは目一杯入ってくるのに。
そんな"前提条件"の中で、体と同じ速度で育てというのも、無茶な話。
特性は一生続くから、軽減はされても消失はしない。
3分の2の成長速度は、3分の2のままなんじゃないかな。
なお、この法則を単純に大人の年齢に当てはめると、私は8歳下の妹にとっくのとうに抜かれている。
妹いわく、「(3分の2説は)大変納得」とのことである。
……遺憾の意を表したい。
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